引きこもりになった要因と背景の考察

社会心理学

基本的に自分が考えていた価値観は親の価値観から作り上げられたもの。

非現実的なほどの理想主義は、親が誇大妄想を捨てきれなかったことの代償で、有名人などを言葉で叩いたり批判することで自分の誇大な自己イメージにしがみついていたことが問題なのである。

自分の世界観への親の介入。自分の趣味嗜好に親(家族)の遠慮ない侵入。守られるものがない。それはまるでストーカーのような狂気すら感じる。徹底して子どもをマークし、事あるごとに後を付け回す。

私は元々人から見られているという、統合失調症の人がよく起こる症状を中1の頃発症していた。その要因は今思えば明らかである。親のストーカーのような日頃の言動が、世界が自分のことを監視しているという妄想へと繋がる。

要するに、親自身が自立に失敗しているということ。自分の好きなことも分からない。自分の人生を歩むことができない。適切な人間関係が築けてない。だから絡みやすい子どもの行事や遊びに子ども以上にやる気になって、どっちが主役なのか分からない。

私自身小学校の6年間、夏休みの自由研究を自分で作ったことはない。全て親の作品である。親が子ども以上にやる気になって、優秀作品を狙ったりしている。一つも身になったものがない。

それが子どもにも伝わる。親の悲壮感が子どもへも伝わる。それが私自身、幸せになってはいけないというジレンマに苦しむことになる。

その光景は、まるで失われた親自身の子ども時代を取り戻すかのような、悲壮感と執念が見えてくる。


親と担任の先生との関わりは、子どもより親密なものだったように伺える。どちらが生徒なのか分からない。親はまだ少女のような目で、先生と交流していたのではないだろうか。親自身、それはそれは悲しい子ども時代を歩んできたんだと思う。だから、子ども以上に学校行事に参加し、失われた子ども時代を取り戻す活動をする以外、親として成すことが出来なかったのである。

そんな環境で過ごしているうちに、その中でわりかし本質を突きたがる私が犠牲者になっただけである。そんな環境の中でも、私は本当のことが知りたかった。嫌なことは嫌と言う。でも周りの大人は、過去の経験からそれが理解出来なかった。

皆本心を隠していい顔していた。だからそれを私で発散すること以外に、家庭環境を維持することは出来なかった。そういう意味では私の犠牲は、家庭の人間関係を守ったものとも言えるだろう。私の不登校(引きこもり)という代償は、腐敗しきった家庭環境を守ったもので、それが私の人生の最初の20年でもある。


結論、親が大人になれなかったのである。

それまでの人生、皆にいい顔して生きてきた。見栄を張って生きてきた。本当は自分に自信がないから、誇大妄想にしがみついて生きてきた。そんな人間関係で繋がっている環境下で、私は産まれることになった。それはそれはその環境の腐敗しきったものは、全て私に向かうことになる。

小学校時代も、親はどの親よりも、どの子どもよりも教育熱心に取り組み、誰よりも子どもよりも真っ直ぐに、子育てという形にこだわり、結果として私をいじめぬいて、犠牲を生みながらも、必死に理想の家庭を作ることに精を出してきた。

親自身、自分の納得できる自分でなかったのでしょう。もっと高学歴ならば、もっと身長があれば、もっとお金があれば、、、もっと〇〇があれば。そうして理想論ばかりになり、何より大切な今をおざなりにして、私の楽しいはずの子ども時代は棒に振って終わった。

親の失った子ども時代を取り戻そうとする過程で、子ども自身の大切な子ども時代は失われた。失ったものにしがみつく代償は大きい。そうしてまた、大人になって子どもが出来た時、自分も子ども時代を取り戻そうとして、また犠牲者を作っていく。

そうして、これまで家庭での不手際は連鎖していくことになる。私はこれを断ち切らねばならなかった。

少し私自身も、この記事を書きながら、当時の辛いことも思い出すため、感情的になり文章の内容が歪曲したりしているが、ご了承していただければ幸いです。

ですが、論文など自身で研究したり、自分自身の経験上、概ね引きこもりの要因となった背景は、上記の通りということが言えます。

どうが、私の意見が、どこかで役に立つことを祈るばかりです。

最後までお付き合いくださいまして、誠にありがとうございます。 今後とも、私のブログをよろしくお願い致します。


参考文献

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